春台先生、詩経を語る(4)

『詩経』は四教の第一

太宰春台
太宰春台

また詩は志の吐露であり、嘘偽りの無い人情から出てきたものだから、誰が何を良く、正しいと思ったのかという、天下のあらゆる価値観*が突き詰められている。だから古人は自分の正当性を主張するのに、詩を持ち出して引用したのだ。

詩で説得すれば、どんな馬鹿者にも通じるからで、車を横に押そうとする無茶な者でも、詩の説得力には反抗できない。宴会の席で詩を吟じたのも、普段は言えないような自分の志を、そういう特別な場で詩として披露して、人に受け入れられるように工夫したのだ。

また詩は、少ない言葉で深い心を歌うものだから、これを学んだ者は言語の習得が速い。さらに詩は、ことばが正しく優美だから、これを学んだ者は知らぬうちに、言葉が美しくなり教養人らしくなる。孔子が息子の伯魚に、「詩を学ばないと何も言えないぞ」とのたまったのはこのことだ。詩を学ぶ効用の全ては、論語に詳しく書かれている。

古人が詩を学ぶには、まず歌うことから始めた。今の人が謡曲を学ぶように、節回しをまず覚え、それを終えたら宴会で必ず一曲は歌った。普段はその歌詞を口ずさんで、忘れないように心掛けたので、いつとなくその文句をよく暗記するようになり、その意味も自然と理解できるようになった。

またその歌詞は当時の言葉ではあるが、一般に人の言葉が、時代の移り変わりと共に、後世では変わってしまい、注釈が無いと意味が分からないのと異なり、歌として親しむと、それ無しで意味が分かる。

詩を学ぶと、その人柄が温和で柔らかくなり、何事にも心が行き届くようになるので、経解に「温柔は詩の教えである」と記された。君子の徳を養うのは、詩から始めるものだから、四教の第一に詩を立てたのだ。

今では歌いたくてもその法が滅びてしまい、習いようもないので、その歌詞だけを暗記して、その意味を理解し、古人がどのように引用したのかを会得するだけになってしまった。しかしそれだけでも、詩を学ぶことには違いない。

『荘子』に「志は、詩で言う」とあるのは、以上述べたようにもっともである。


坂井末雄編『漢文読書要訣』より。

価値観:原文「義理」。義理とは義理人情の義理ではなく広義には義=正しいこと、理=そのことわりを言う。つまり何を正しいとするか、その基準のこと。言い換えるとイデオロギー論争でもあり、戦後頭の呆けた教授連中が、本業そっちのけでふけった醜態でもある。

春台先生がとうの昔に「後世の学者が読書を務めとし、講説を要とし、義理を論じて歳月を過ごすようなことはなかったのだ」と批判していたその通りになった。

どうも漢文業界には、早くから弁公室のカネが流れ込んでいたらしく、自分でまともに漢文を読まない教授連中が、今から思えば揃って中国の回し者になっていたようだ。ちゃんと漢文や中国語を読み書きできる人ほど、天安門事件を「却って良い」と言っていたのを思い出す。

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