春台先生、詩経を語る(3)

大雅、小雅、頌は教養ある士大夫の作

太宰春台
太宰春台

次に、『詩経』の二番目に小雅、三番目に大雅と言うが、どちらも雅であることは同じである。雅は正と読み下すから、雅の詩はみな歌詞が正しい。天子*や諸侯が賓客を迎えるときに、宴会で音楽を奏でてこの詩を歌う。その宴会の格に大小があるから、雅にも大小がある。だから雅の詩は全て教養ある士大夫の作で、民間から採録した歌ではない。

第四に頌というのは、天地社ショ句*宗ビョウを祭るときの歌曲である。頌は容と読み下し、祖宗の徳を形容して讃え、それを神霊精霊*に告げるための歌だから頌と呼ぶ。頌とは誉めることである。だから頌の歌も、作者は全て教養ある士大夫である。

以上、国風・大小の雅・頌を合わせて三百十一篇になる。このうち小雅の中にある笙の詩六篇には歌詞がない。つまり歌詞のあるうたは三百五篇になる。そのおおざっぱな数を言って三百篇という。『論語』に「詩三百」というのはこのことだ。

詩は天下の情を尽くす

『詩経』三百篇の詩には、天下のあらゆる事が歌われている。天子から庶民まで、家庭でのこと、外でのこと、公私両面の振る舞い、あらゆる人情あらゆる価値観、みな全て語り尽くしており、ほとんど漏れた事柄が無い。

およそ人情というものは、天子国君から庶民に至るまで、その立場身分によってそれぞれに異なっている。なぜかと言えば、人情とは要するに好悪だからだ。好は好む、悪はにくむと読み下す。好むとは心に好くことをいい、憎むとは心に嫌うことを言う。

つまり人情とは好き嫌いであり、それは地位身分により違ってくる。同じ人が君主なら、君主なりに好き嫌いを言い、家臣になれば、家臣の立場で好き嫌いを言う。人というのは全て、自分の勝手な都合で好き嫌いを言う。

子なら子、父なら父、弟には弟、兄には兄の都合で、人の上になり下になりして、好き嫌いを言う。同じ人間でも立場が違えばこの通り。別人ならなおさらで、男女の間でもう相手の都合が分からない。

一国の家老重役となれば、地位が段々上がって行くに連れ、細民小人のことは分からない。国君は家老より更に尊く、天子は諸侯より更に貴い。地位が尊貴なら、その分下から遠ざかる。加えて宮殿の奥深くに生活するからには、下層の男女どもの心がどうして分かろうか。

だがそれが分からないまま政令を出しても、民情に逆らうから従われない。だから政治を取る者は、わざわざ民情を知るよう努めねば仕事にならない。

そこで今、天下人でありながら万民の情を知ろうと思う者に取って、詩を学ぶより効果的なものは無い。詩には天下の情が全て歌われているからだ。現代のことわざに、歌人は出かけること無しに名所を知っている、と言うのと同じだ。詩を学べば天下のことが分かるのである。


坂井末雄編『漢文読書要訣』より。

天子:原文は君子。誤植と判断した。

社稷:社は土地神、稷は穀物神。合わせて王朝や国家をも意味する。

神霊精霊:原文は鬼神。中国語で鬼とは亡霊を意味し、神とは自然の精霊や、偉大な人物の亡霊を言う。

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