春台先生、詩経を語る(1)

詩は心の声

太宰春台
太宰春台

詩は歌いものである。『孟子』に心の官=機能はつまり思う事だと書いてある。左様に人の心は思う事が機能だから、何事もない暇なときにも、何かとは知らず思う事が無いでもない。だから何か物事に感じることがあれば、言うまでも無く怒ったり笑ったり、憎んだり憐れんだりするのが人の情というものである。

かように感情が溢れたら、口に出るのも道理で、その感情が軽ければうなるだけで済むが、重いとうめき嘆きなどする。それでも収まらないと言葉になる、しかし人に説教できるまでには至らないから、思ったままを言葉にする。これを詩と言うのである。詩を心の声というのはこの意味からだ。

凡そ人の心には喜怒哀楽が起こるのは、つまりは心の不平からだ。愚痴を言うのは簡単でも、不平を人に陳述するのは難しい。それにそもそもみっともないから、人に言い出すのも恥ずかしい。まして人に恨み辛みを言うのは、普通の言葉では言いにくいものだ。

ところがこれが詩だとすらすら通る。わずかの言葉に人への恨み言をこめても、聞く者怒らず、言う者罪無しで済まされる。また普通の言い方では中々人は同意してくれないが、詩だと釣り込まれて心を動かす。古今和歌集に天地鬼神をも動かすとはよく言ったものだ。

詩の始まり

元ネタの『詩経』注釈の序にも、天地を動かし鬼神を感ぜしむと書いてあるのはそういう意味だ。昔帝舜が群臣と天下の政治を議論したまい、終わりに歌を作って、「股肱喜ぶ哉、元首起こる哉、百工煕まる哉」と仰せになった。股肱とは家臣で、元首は君主で、百工とは役人のことだ。

つまり家臣が喜んで忠義を尽くすので、主君の業績も上がり、役人の仕事も滞りが無いということだが、大臣の皋陶コウトウがこの歌に答えて、「元首明らかなる哉、股肱良き哉、庶事康い哉」と歌った。つまり主君の徳が明らかなので、臣下は才能を尽くし、全ての行政が治まり安いということだ。

さらに帝が応じて、「元首叢脞ソウザなる哉、股肱おこたる哉、万事おつる哉」と歌った。叢脞とはサイ(=些細)であり、歌の心は主君の行いが細かに過ぎて、臣下の仕事に一々口を出せば、臣下はやる気を失って政治が万事滞る、ということだ。この帝舜と皋陶との歌が、即ち詩の始まりである。

時代が下って夏の太康が、暇を持て余して遊び回り、君主の徳を失って、狩りにふけって政治をおろそかにしたが、その弟五人がこれを怨んで、開祖禹王の戒めを述べて、五首の歌を作った。この歌などはみな『書経』に載っているが、これは太古の時代の話で、歌と言うが実は詩である。


坂井末雄編『漢文読書要訣』より。

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