春台先生、六経を語る(2)

詩は歌いもの、書は読みものなり

太宰春台
太宰春台

第一に詩は、うたいもので、簡策に書き記すまでもなく、童子の頃から師匠について、口づから授かって歌い習ったものである。その詞が、すなわち現伝の『詩経』三百篇の詩である。古人が詩を学んだのは、現代人が謡曲を習ったのと同じである。〔つまり諸国で言葉が違うから、共通語として詩を学んだのだ。〕

第二に書は、堯舜以来、夏殷周三代の明王聖賢が、天下を治めたまえる道、並びに君臣の問答教誨の言葉を記したものである。これが現伝の『書経』五十八篇である。四教のうち、ただ『書経』だけは、簡策に書き付けたものを声に出して読誦した。
論語 竹簡

ここで詩はうたいものではあるが、普段はただその言葉を暗記して、文句だけを口に出して唱えることで、忘れないように心掛けるから「詩を誦する」と言った。対して書は字音を正し、句読を明らかにして、釈子〔=釈迦〕の読経のように反復熟読するのがお務めだったから、「書を読む」と言った。学〔ぶ〕者の務めとして「詩を誦し書を読む」と言ったのはこれである。

礼は天下万事の儀式、楽は歌舞管弦鉦鼓の芸なり

第三に礼は、天下の万事の儀式である。これを学ぶのは、現代人が小笠原礼法を学ぶとのと同じである。だからもともと書籍を読むものではなく、ただ所作を稽古するのが要である。しかし礼には書籍があって、これを礼経とも礼書とも言う。日本での礼儀作法にも、式次第が書き物としてあるのと同じである。

第四に楽は、歌舞管弦鐘鼓の芸である。楽師について学ぶ。これも書籍を読むには及ばず、譜というものを書き付けたのを、伝授して楽経とも楽書とも言う。

さて以上、詩書礼楽の四教のうちに、書籍というのは『書経』ばかりで、詩は歌いもので礼楽は所作芸である。古人が童子の頃より学んだのは、ただこの四つだけである。後世の学〔ぶ〕者が読書を務めとし、講説を要とし、義理を論じて歳月を過ごすようなことはなかったのだ。

論語 君子 小人
この四教を受けて、才徳を成就した者を君子という。対して礼楽を学ばない者を、小人とも俗人とも野人とも庸人とも凡夫とも言ったのだ。

易は陰陽変化の道を知り、春秋は魯国史官の記録なり

第五に易は、六十四卦、三百四十八コウに、文王周公のことばがある。詩書礼楽を学んだ上で、易を学んだ目的は、陰陽変化の道を知り、吉凶消長の理を明らかにするためである。

第六に春秋は、魯国の史官の記録である。これを学ぶ目的は、国家の治乱興亡の跡を考え、褒貶賞罰の法をわきまえるためである。四術の奥義に達しても、この二経を学ばないと、天下国家の用に欠ける所があるので、君子は必ずこれを学んだ。

六経は六種の道であり、その目的は同じでない。六経の一つが欠けても、天下を治めるには必ず不自由な点が出て来る。家庭で何か行うのに、その道具がないと行えないようなものだ。だから六経は、天下国家を治める六つの道具と心得るがいい。

論語 朱子 新注 論語 程伊川
宋儒は六経のうち、いずれか一経を修めるだけで、身の修めから家を治め国を治め天下を治めるに至るまで、他の経を用いなくても、足りない所がないという。朱子詩伝の序文にそう書いてあり、程伊川の易伝、胡安国の春秋伝、蔡沈の書伝、みな一経を用いて他経を要らないと言っている。

これは仏者がその宗派にこだわって、法華経を信じる者は法華経だけで仏法が語り尽くされたと言い、華厳経を信じる者が華厳経を同様に言うのと同じである。仏法は一心を治める法だから、どの経でも学んで悟れたら心を治めるのに不足はない。

しかし聖人の道は、天下を治める道だからそうはいかない。六つのうちから一つでも欠けても、天下の治めに不足が出る。また一経で他経を兼ねることも出来ない。他経の変わりも務まらない。これは例えば刀には刀の目的、扇には扇の目的があるのと同じである。ここから宋儒のでたらめが分かるというものだ。

論語 伊藤仁斎
また〔私もお世話になった〕伊藤仁斎先生などは、六経を捨てて用いず、『論語』を最上至極宇宙第一の書と讃え、身を修めるから天下を治めるに至るまで、その道はたった一部の『論語』で語り尽くされていると言う。これは大変かたよった見解で、大きな間違いである。


坂井末雄編『漢文読書要訣』より。

宋儒が一経だけでいいと言い出したのは、科挙=高級官僚採用試験の影響かも知れない。

科挙はのちに進士科だけが残ったが、宋代までは明経科と言って、儒教経典の暗記度合いを試すコースも存在した。明経科もまた細分化され、五経=易経・詩経・書経・礼記・春秋全部を試すものから、三経・二経を試すもの、さらに学究と言って一経だけ試すコースもあった。

よほどの暗記力が無ければ五経など無理で、勢い人気は学究に集まったが、その代わりただの暗記屋と見なされ、場合によっては科挙合格者の数にさえ入れて貰えなかったという。対して進士は経典の暗記の他、詩の作成に時事論文も課されたから、これが科挙の本道になった。

その代わり暗記する経典は一経だけで済む。中国人は利に対して合理的なのである。たとえば今日(2020/02/08)現在の報道によると、中国政府が特設した新型コロナウイルス対策本部に、公安、宣伝、外交の専門家は入っているが、医学の専門家は一人も入っていないという。

つまりどんなに疫病が流行ろうが、国内治安と対外的メンツが立てばそれでよし。うはー。

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コメント

  1. […] その元ネタはたぶん春台先生だが、とあれ標準語へのあこがれは、中国人も同様だった。 […]