第二節 名詞の小分〔承前〕
形式名詞の小分
形式名詞は、形式的意義が有るだけで実質的意義がないものであるから、その実質的意義は、他語によって補われなければならない。その之を補う語を補充語という。
形式名詞は、そのいかなる補充語によっていかに補われるか、その補われ方によって、之を分けて単純形式名詞、寄生形式名詞の二種とする。
前者に属するものは、「者」「等」の二つで、後者に属するものは「之」「焉」「諸」の三つである。「所」も形式名詞的意義はあるが、これは形式副詞的意義もあるから複性詞である。
単純形式名詞
単純形式名詞は、単純なる補充語によってその実質的意義の補われる形式名詞である。単純なる補充語とは、ただ形式名詞に対して補充語であるだけで、別に何等の役目も持たないものである。
例えば「知レ吾者」の「者」は形式名詞であって、「知レ吾」は「者」に対して単に補充語であるだけで、別の役目は無い。ただ「者」だけでもすでに一つの名詞であるが、実質的意義を補うために「知吾」がついたのである。
日本語では、「吾を知る者」という「知る」は第四活段であって、連体格であるから、名詞を修飾する役目を持っている。それゆえ「吾を知る」を単純な補充語と言うことは出来ない。しかし漢文では、「知吾」を「知」は所謂る不定法(実質形)であって、連体格でも何でもない。
者
「者」」は事物の概念の形式的意義(意義とは効果のことであるを表す名詞で、用法が種々ある。
一 「者」は作用の主体を表す
- 皆好其聞命而奔走者、不好其直己而行道者。 聞命而奔走者、好利者也。直己而行道者、好義者也。未有好利而愛其君者。未有好義而忘其君者。(韓愈「上張僕射書」)
〔皆その命を聞き而奔走する者を好み、その己を直くし而道を行う者を好まず。 命を聞きて奔走する者は、利を好む者也。己を直くし而道を行う者は、義を好む者也。未だ利を好み而其の君を愛する者は有らず。未だ義を好み而其の君を忘るる者は有らず。〕 - 先聞此聲者其國必削。(『韓非子』十過)
〔先此の声を聞く者は、其の国必ず削らる。〕 - 古之聽淸徵者皆有德義之君也。(同上)
〔古之清徴を聴く者は、皆な徳義有る之君也。〕 - 凡人主之國小而家大權輕而臣重者可亡也。(『韓非子』滅徴)
〔凡そ人主之国小くし而、家の大権軽くし而、臣の重き者は亡ぶ可き也。〕 - 夫富者、苦身疾作、多積財而不得盡用、其為形也亦外矣。(『荘子』至楽)
〔夫れ富める者は、身を苦しめて作すに疾み、多く財を積み而用い盡くるを得不、其の形る也亦た外なる矣。〕 - 吾聞之、可與行者與之至於妙道、不可與徃者不知其道。(『荘子』漁夫)
〔吾れ之を聞けり、与に行く可き者は、之与妙道於至り、与に往く可かた不る者は、其の道を知ら不と。〕
「者」の意義は形式的であるが、その実質的意義はその上にある作用を表す語によって補われる。
作用の主体に、大小の主体のある場合がある。そういう場合に「者」が、大主体を表すことがある。例えば
- 親臣進而故人退、不肖用事而賢良伏、無功貴而勞苦賤、如是則下怨、下怨者、可亡也。(『韓非子』亡徴)
〔親臣進め而故人退き、不肖事に用いられ而賢良伏せ、無功貴ばれ而労苦賎めらるる、是の如くんば則ち下怨む、下の怨む者は、亡ぶ可き也。〕
「怨」の主体は「下」であるが、その大主体即ち「下怨」全体の主体は「国」である。上の例の「者」は、「怨」の大主体なる「国」を指すのである。
以上の例は、「者」の上にあって「者」の意義を補充する語が動詞であるが、それが名詞たる場合もある。「王者」「覇者」「仁者」などはその例だ。こういう場合の上の名詞は、叙述態(■第二章第一節)であるから、動詞と同様の効果がある。
角者吾知其爲牛、鬣者吾知其爲馬。(韓愈「獲麟解」)
〔角ある者は吾れ其の牛爲るを知り、鬣ある者は吾れ其の馬爲るを知る。〕
の「角」などは、名詞性動詞である。