第二節 名詞の小分〔承前〕
不定名詞の小分
不定名詞は、実質的意義の不定なる名詞である。例えば、「何」「幾何」「誰」「孰」「疇」「某」「若干」などの類だ。
不定名詞は、みな実質的意義が不定であるが、実質的意義がないのではない。ただ分からないだけで、有ることは有るのであるから、形式名詞のように、全然実質的意義の欠けているのとは違う。
また不定名詞は、実質的意義が不定であって、指示によって実質的意義が定まるものではないから、代名詞ではない。例えば代名詞「我」は、太郎が用いれば太郎を指し、次郎が用いれば治郎を指すというように、その場合場合で実質的意義が定まるが、不定名詞「誰」は、人が分からないから誰と言うので、その指す所はどこまでも分からない。
不定名詞のうち、「何」「幾何」「誰」「孰」「疇」等は、その意義が不定ではあるが、その定まるべきことが予想されている。例えば
- 梁襄王*…卒然問曰、天下惡乎定。吾對曰、定于一。孰能一之。對曰、不嗜殺人者能一之。孰能與之。對曰、天下莫不與也。(『孟子』梁恵王上)
〔梁の襄王…卒然として問うて曰く、天下惡にか定まらん、と。吾對えて曰く、一に定まらん、と。孰か能く之を一にせん、と。對えて曰く、人を殺すを嗜しまざる者、能く之を一にせん、と。孰か能く之に與せん、と。對えて曰く、天下與せずということ莫き也、と。〕
の「孰」というのは、人が分からないから不定に言うので、数学的に言えばXで、仮にその人を表すのであるが、しかもその人の定まるべき予想を持っている。そうして単に予想を持っているだけならば、これを「疑」と言い、予想だけでなく予想の実現を予期する場合、即ち答えを持つ場合は、これを「問」と言い、「疑」と「問」とを合わせて疑問という。
「何」「誰」「幾何」「孰」等は疑問名詞である。所がまた、
- 嘗試語於衆曰、某良士、某良士。其應者、必其人之與也。(韓愈「原道」)
〔嘗て試みに衆に語って曰く、某は良士なり、某は良士なり、と。其の應ぜし者は、必ず其の人之與也。〕
などという「某」は、人が分からないのを分からないままにしておくので、Xではあるがその定まるべき予想を持っていない。こういうのを不問という。「某」「若干」は不問である。
疑問名詞のうち、「何」「幾何」は種類の疑問で、本名詞ならば普通名詞に該当する。「誰」「孰」「「焉」は個体の疑問で、本名詞ならば固有名詞に該当する。区別して命名したならば、汎称的疑問、個別的疑問とでも言うべきであろう。
「何」は不定名詞たる場合よりは、副詞、副体詞たる場合が多い。
- 小子後生、於何考德問業。(韓愈「送温處士赴河陽軍序」)
〔小子後生、何くに於いてか徳を考えて業を問わん。〕 - 王曰何以利吾國、大夫曰何以利吾家、士庶人曰、何以利吾身、上下交征利而國危矣。(『孟子』梁恵王上)
〔王の何ぞ吾が國を利すを以てと曰わば、大夫の何ぞ吾が家を利すを以てと曰い、士庶人の何ぞ吾が身を利すを以てと曰い、上下交りて利すを征い而國危き矣ん。〕
の「何」は不定名詞であるが、
の1.の「何」は副詞で「なんぞ」と読み、2.の「何」は副体詞で、「いかなる」と読む。ただし日本語の「いかなる」は形容動詞である。
「焉」は代名詞たる場合は「これ」、副詞たる場合は「いづくんぞ」であるが、不定名詞たる場合は「いづこ」である。
- 皎皎白駒、食我場苗。縶之維之、以永今朝。所謂伊人、於焉逍遙。皎皎白駒、食我場藿。縶之維之、以永今夕。所謂伊人、於焉嘉客。(『詩経』小雅・白駒)
〔皎皎たる白駒、我が場の苗を食め。之を縶い之を維ぎ、以て今朝を永しくせん。所謂伊の人、焉に逍遙せん。皎皎たる白駒、我が場の藿を食め。之を縶い之を維ぎ、以て今夕を永しくせん。所謂伊の人、焉に嘉客たらん。〕
「疇」は極古く、『尚書』などに見えているだけである。
襄王:原文「恵王」を改めた。