『標準漢文法』030:2-1-2G位置代名詞・日本語との比較

第二節 名詞の小分〔承前〕

位置代名詞〔承前〕

日本語との比較

□日本語の位置代名詞には、第一近称(これ)、第二近称(それ)、遠称(あれ)の三種がある。第一近称(これ)は、自己へ近いものを指し、第二近称(それ)は、対者へ近いものを指す。例えば、自己の手に持っている物は「これ」と言い、対者の手に持っているものは「それ」と言い、両方へ遠いものは「あれ」と言う。

世間の文法書の多くは、「それ」を中称と称し、遠近の中間に在るものを指すと言うが、それは誤りである。物の遠近は程度の問題であるから、一定の区別は出来ない。遠近の中間の物は、日本語では中間と見ずに、自分へ近いと見るか、対者へ近いと見るか一方に決めて、「これ」とか「それ」とか言うのである。

然るに漢文には中称があって、第二近称が無い。漢文の近称(此)は、第一近称であるから対者に近い物へは使わない。対者に近い物は、遠称(彼)を使い、又は中称を使う。但し対者へ近いものと、遠方の物とを対照して言うときには、遠方の物に遠称を使うから、対者へ近いものは近称を使うことになる。

そこで漢文の「此」「彼」は、日本語の「これ」「あれ」に当たる場合と「これ」「それ」に当たる場合と〔が〕ある。近時の俗語では中称が無くなって、近称(這個)遠称(那個)の二つとなった。ただ山東省の一帯に、「乜*個」という語がある。「乜」は俗字で中称だ。


乜:音バ・メ。訓やぶにらみ・みこ。unicode 4e5c。
乜 大漢和辞典


もう一つ注意することは、日本語で遠称を使う事物は、必ず自己も対者も共に知っている事物に限ることである。いずかたか一方が知らなければ、遠称〔「あれ」〕は使わない。

然るに漢文には、第二近称(それ)が無く、その代わりに中称がある。日本語で第二近称(それ)を用いる所は、漢文では中称(是)を用いる場合と、近称(此)を用いる場合と、稀には遠称(彼)を用いる場合がある。

又日本語で近称(これ)を用いる所は、漢文は近称(此)を用いるが、中称(是)を用いることもある。これが漢文と日本語と〔で〕、代名詞の用法の一致しない点である。


日本語 漢文
第一近称(これ) 近称(此」「斯」「茲」など)
中称(是)
第二近称(それ) 近称(此)
中称(是)
遠称(彼)
遠称(あれ) 遠称(彼)

日本で中称の漢字(是)へ訓を付けるには、日本には中称の語がないから、第一近称(これ)を用いた。前後の関係で、第一近称(これ)と第二近称(それ)とに読み分けることが、困難であったからである。

□「是」は「これ」と近称に読んでも、実は中称であるから、「此」とは用法が違う。吾々は、この点に注意しなければならない。「是」は何を指すかというと、それに二種ある。一は前言の内容で、二は何でも適当な事物である。先づ第一の用法を挙げる。

  • 項籍唯不能忍以百戰百勝而輕用其鋒。(蘇東坡「留侯論」)
    〔項籍唯だ忍ぶ能わ不。是を以て百戰百勝し而輕しく其の鋒を用う。〕
  • 當淮陰破齊而欲自王、高祖發怒、見於辭色。由觀之、猶有剛强不忍之氣、非子房其誰全之。(蘇東坡「范増論」)
    〔當に淮陰の齊を破り而自ら王たらんと欲す、高祖怒を發し、辭色於あらわる。是に由りて之を觀るに、猶お剛強にして忍ばざる之氣有り、子房にあらざれば其れ誰か之を全うせん。〕
  • 不用其言、而殺其所立、羽之疑增必自始矣。(同上)
    〔其の言を用いず、し而其の所立つる所を殺す、羽の增を疑うは必ず是自り始まる矣。〕
  • 挾太山以超北海、語人曰我不能誠不能也。爲長者折枝、語人曰我不能不爲也、非不能也。(『孟子』梁恵王上
    〔太山を挾みで以て北海を超ゆるを、人に語げて曰く、我能わず、と。是れ誠に能わざるなり。長者の爲に枝を折るを、人に語げて曰く、我能わ不、と。是れ爲不るなり。能わ不るに非ざる也。〕
  • 然則夫子旣聖矣乎。曰、惡何言也。昔者子貢問於孔子曰、夫子聖矣乎。孔子曰、聖則吾不能。(『孟子』公孫丑)
    〔然らば則ち夫子は旣に聖なるか。曰く、ああ是れ何の言ぞ也。昔者子貢孔子に問うて曰く、夫子は聖なるか、と。孔子曰く、聖は則ち吾能わず。〕
  • ……。王曰、吾惛、不能進於矣。願夫子輔吾志、明以敎我。(『孟子』梁恵王下)
    〔王曰く、吾惛くして、是に進む能わ不。願わくは夫子吾が志を輔けて、明らかに以て我に敎えよ。〕
  • 取之而燕民悅、則取之。古之人有行之者。武王也。取之而燕民不悅、則勿取。古之人有行之者。文王也。(同上)
    〔之を取りて燕の民悦ばば、則ち之を取れ。古の人之を行う者有り。武王是れ也。之を取りて燕の民悦ばざらば、則ち取る勿れ。古の人之を行う者有り。文王是れ也〕
  • 孟子曰、聖人百丗之師也。伯夷・柳下惠也。(『孟子』尽心下)
    〔孟子曰く、聖人は百世の師なり。伯夷・柳下惠是れなり。〕

これらの「是」は、前言  の内容を指すのである。この「是」を、近称「此」に代えても良いが〔テキストによってはそうなっている〕、意味の具合が違う。「是」を用いれば、「是」は前言の内容を指すのであるが、「此」を用いれば、前言の内容をそのまま前言の内容として指すのではなく、それを一つの実物として指すのである。

  • 月明星稀烏鵲南飛非曹孟德之詩乎。西望夏口東望武昌、山川相繆鬱乎蒼蒼非孟德之困於周郎者乎。(蘇東坡「前赤壁賦」)
    〔月明るく星稀にして烏鵲南へ飛ぶ。此れ曹孟德之詩に非ず乎。西に夏口を望み東に武昌を望み、山川相い繆鬱乎として蒼蒼たり。此れ孟德之周郎於困しめられし者に非ず乎。〕

などがその例だ。  は実物の代わりである。「此」は実物を指し、「是」は前言を指す。実物は遠近を定めることが出来るから、近ければ「此」を用い、遠ければ「彼」を用いる。前言の内容でも、之を実物として取り扱えば、自分へ近いと見て「此」という。

□次に第二の用法では、「是」は遠近を定めずに適当なものを指す。有形物ならば遠近があるから、「此」「彼」であるが、無形物では遠近が無いから、中称を用いるのである。

  • 彼人也、予人也。彼能而我乃不能是。(韓愈「原毀」)
    〔彼も人也、予も人也。彼は是を能くし、し而我は乃ち是を能くせず。〕
  • 一善易修也。一藝易能也。其於人也、乃曰、能有是、是亦足矣。曰、能善是、是亦足矣。(同上)
    〔一善は修め易き也。一藝は能くし易き也。其の人に於ける也、乃ち曰く、能く是れ有り、是れ亦足る矣と。曰く、能く是を善くす、是れ亦た足る矣と。〕
  • 博愛之謂仁。行而宜之、之謂義。由而之焉、之謂道。(韓愈「原道」)
    〔博愛之を仁と謂う。行い而之を宜くす、之を義と謂う。是に由り而れ之く、之を道と謂う。〕

「彼能是」の「是」は何を指すか。何ということはない、適当なる芸を考えれば善いのである。文なら文、詩なら詩、経なら経、何でも彼の出来るものを指すのである。そういう場合に〔は〕、遠近の定めようは無いから中称を用いる。

□日本語では「此れはは此う、彼れはああ」「其れは其れ、此れは此れ」という風に、此れ彼れと対する場合と、其れ此れと対する場合があるが、漢文でも「彼」「此」と対する場合と、「是」「此」と対する場合とあるのである。「入于彼者出于此」などは彼此の対であるが、

  • 天下之人聞執事之於愈如也、必皆曰、執事之好士也如此、執事之待士以禮如。(韓愈「上張僕射書」)
    〔天下の人、執事の愈に於けること是の如きを聞く也、必ず皆曰わん、執事の士を好む也此の如し、執事の士を待つに礼を以ってするは此の如し。〕

などは、「是」「此」の対である。以て「是」が「これ」「かく」と読んでも、近称でなくて中称であることが分かるであろう。

「是」は、そうある状態を指すのであるから、場合を指すことがある。そういう時には「これ」と読まずに、「ここ」と読む。口語訳では「そこ」と言うべきである。「於是」は「そこで」である。また「如是」は「かくのごとし」と読むが、口語訳は「そんな」「そういう」「その通り」であって、「如斯」「如此」が「こう」「こんな」「このよう」の意であるのとは違う。

「是」は、そうある状態を指すのであるから、代名詞としては「それ」「そこ」と言うのに近いが、「此」「彼」と違い、有形物を指すのでないから、転じて副詞となり、又動詞ともなった。そうしてこの場合には、其の否定には「非」が用いられる。「色即是空」「誰是長年者」「豎刁易牙開方三子非人情」などの「是」「非」は副詞で、「實迷途其未遠、覺今是而昨非」などの「是」「非」は動詞だ。


色即是空:般若心経より。

誰是長年者:杜甫「玉華宮」より。誰か是長年なる者ぞ。

豎刁…:蘇洵「管仲論」より。豎刁ジュチョウ易牙開方の三子、人の情に非ず。

實迷…:陶淵明「帰去来辞」より。實に途に迷うこと其れ未だ遠からず、覺る今の是にし而昨の非なるを。

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コメント

  1. […] 至是:松下文法によると、「是」は中称であり、日本語には中称がないから仕方なく「ここ」と近称に読むが、意味は違うという。この場合の「是」は、無形物で遠近が定められない時間のことであり、「於是」と同様、”そこで”・”そして”の意。時間的前後・因果関係がある場合に用いる接続句。林本の”この時になって”という訳には賛成しがたい。 […]