『標準漢文法』029:2-1-2F位置代名詞の諸相

第二節 名詞の小分〔承前〕

位置代名詞

位置代名詞は説話者自身を基準とし位置に由って事物を指示する代名詞である。「此」「斯」「彼」「是」の五詞がそうだ。位置代名詞に近称・遠称・中称の三種がある。日本語には中称がなく、その代わりに近称に第一近称・第二近称の二種があるから、日本人が漢文法を研究するにはこの別を知らなければならない。

近称

近称は自己の位置へ近いものを指す称であって、「此」「斯」「茲」等がそうだ。「是」は中称であって近称ではなく、「之」は形式名詞であって代名詞ではない。「此」「斯」は有形無形に拘わらず広く一般の事物を指すものである。

  • 其言道德仁義者、不入于楊、則入于墨。不入于老、則入于佛。入于彼、必出于此。入者主之、出者奴之。(韓愈「原道」)
    〔其道德仁義を言う者、楊于入らざらば、則ち墨于入る。老于入らざらば、則ち佛于入る。彼于入らば、必ず此于出づ。入る者は之を主んじ、出る者は之をおとしむ。〕
  • 屈原既放、游於江潭、行吟沢畔。顔色憔悴、形容枯槁。漁父見而問之曰、子非三閭大夫与。何故至於斯。(屈平「漁父辞」)
    〔屈原既に放たれ、江潭於游び、行きて沢畔に吟う。顔色憔悴し、形容枯槁やせおとろえたり。漁父見而之に問いて曰く、子三閭大夫に非ず与。何故に斯於至ると。〕
  • 客亦知夫水與月乎。 逝者如斯、而未嘗往也。盈虛者如彼、而卒莫消長也。(蘇東坡「前赤壁賦」)
    〔客も亦た夫の水與月とを知る乎。 逝く者は斯くの如く、而るに未だ嘗て往かざる也。盈ち虛けする者は彼の如く、而るに卒に消長する莫き也。〕
  • 王立於沼上、顧鴻鴈麋鹿曰、賢者亦樂此乎。孟子對曰、賢者而後樂此、不賢者雖有此、不樂也。(『孟子』梁恵王上
    〔王沼の上り於立ちて、鴻鴈麋鹿を顧みて曰く、賢者も亦た此を樂しむ乎。孟子對えて曰く、賢者にし而後此を樂む、賢なら不る者は此有りと雖も、樂ま不る也。〕
  • 王好戰、請以戰喻。填然鼓之、兵刃既接、棄甲曳兵而走。或百步而後止、或五十步而後止。以五十步笑百步、則何如。曰、不可、直不百步耳、是亦走也。曰、王如知此、則無望民之多於鄰國也。(『孟子』梁恵王上
    〔王戰を好めば、請う戰を以て喻えん。填然として之れ鼓ち、兵刃既に接するに、甲を棄て兵を曳き而走る。或いは百步にし而後止まり、或いは五十步にし而後止まる。五十步を以て百步を笑わば、則ち何如。曰く、不可なり、直だ百步なら不る耳、是れ亦た走る也。曰く、王此を知る如く、則ち民之鄰國於り多きを望む無き也。〕
  • 月明星稀、烏鵲南飛。此非曹孟德之詩乎。(蘇東坡「前赤壁賦」)
    〔月明るく星稀なるに、烏鵲南に飛ぶ。此れ曹孟德之詩に非ず乎。〕
  • 刑入於死者乃罪大惡極、此又小人之尤甚者也。(欧陽脩「縱囚論」)
    〔刑の死於入りたる者は乃ち罪の大惡極りなり、此れ又た小人之尤も甚しき者也。〕
  • 斯道也何道也。曰、斯吾所謂道也。非向所謂老與佛之道也。(韓愈「原道」)
    〔斯道也や何の道也ん。曰く、斯れ吾が所謂る道也。向に所謂る老與佛之道に非る也。〕
  • 太宗之爲此、所以求此名也。(欧陽脩「縱囚論」)
    〔太宗之此を爲すは、以て此の名を求むる所也。〕

「此」と「斯」は有形無形に拘わらずあまねく事物を指すに用いるが、「此」は普通の「これ」であって特殊の意味はない。「斯」はいくぶんか事物を状態として取り扱うのである。「此」も「斯」も「これ」と訓するのであるが、「如此」「如斯」という場合は「かくのごとし」と読む。それは日本語の「ごとし」に名詞性があるからである。漢文には関係はない。「茲」「時」は「此」と同音で、極古くは「此」と同様に用いられた。

  • 禹曰、朕德罔克、民不依。皋陶邁種德、德乃降、黎民懷之。帝念哉。念茲在茲、釋茲在茲、名言茲在茲、允出茲在茲、惟帝念功。(『書経』大禹謨)
    〔禹曰く、朕が德克くすること罔く、民依らず。皐陶すすんで德をき、德乃ち降りて、黎民之に懷く。帝念えや。茲を念えば茲に在り、茲をてても茲に在り、茲を名づけ言うも茲に在り、允に茲を出だすも茲に在り。惟れ帝功を念え、と。〕
  • 維昔之富、不如時、維今之疚、不如茲。(『詩経』大雅・召旻)
    〔維れ昔之富、かくの如から不、維れ今之やまいかくの如から不。〕

普通は場所を表す場合(時をも場所として見る)にのみ用いる。「ここ」と読む。

  • 太宗施德於天下、於茲六年矣。(欧陽脩「縱囚論」)
    〔太宗の德を天下於施すや、茲に於いて六年矣。〕
  • 愈縻于茲、不能自引去資二生以待老。(韓愈「送溫處士赴河陽軍序」)
    〔愈茲于つながれ、自ら引き去りて二生をはかりて以て老いを待つ能わ不。〕
  • 子畏於匡。曰、文王既沒、文不在茲乎。(『論語』子罕
    〔子匡於畏る。曰く、文王既に沒しぬるも、文茲に在ら不乎。〕

「此」「斯」「茲」は、また副体詞として「この」の意に用いられ、副詞として「ここに」の意に用いられる(■第四節)。

遠称

「彼」は自己の位置に遠いものを指す詞である。之を遠称という。「彼」は人称代名詞の場合は我汝以外の人格を指すので遠近などの意はなく、「彼我」の「彼」の意であるが、位置代名詞の場合は近称の「此」に対する遠称であって、「彼此」の彼である。近世の俗文では「我」に対して「彼」の代わりに「他」といい、「此」(這個)に対しては「彼」の代わりに「那*個」という。


那:言うまでも無く、現代北京語の这个zhège、那个nàge。従って原文「耶」は誤字と判断し改めた。「耶個」では検索に引っかからないが、「那個」なら宋代以降の例文を引くことができる


「彼」は第三人称の場合も遠称の場合も「かれ」と読むが、遠称の場合は「かれ」と読んでも「あれ」の気持で読むのである。「彼」は副体詞の場合がある。その場合には「彼国」「彼地」などのように「かの」と読む。

中称

「是」は遠近を定めずに事物を指示するもので之を中称という。日本語の「それ」に近い意味を持っているが少し違う。

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