第二節 名詞の小分
名詞の四種
名詞を分けて、本名詞・代名詞・不定名詞・形式名詞の四種とする。
本名詞
本名詞は、直接に実質的意義を表示する名詞である。常に変動しない実質的意義を持っている名詞である。
例えば「鳥」「獣」「山」「海」「声」「色」「政治」「法律」「日本」「支那」「論語」「孟子」などの類だ。何人が用いても「鳥」と言えば鳥を指し、「獣」と言えば獣を指し、その実質的意義は変わらない。
之に反して「我」「汝」の如きは、孔子が「我」と言えば孔子を指し、孟子が「我」と言えば孟子を指すというように、その実質が変わる。また「誰」「何」などは、実質的意義が不定であるし、「者」「等」などは、実質的意義がない。そういうものは本名詞ではない。
世間で名詞と称するものは、大体に於いて本名詞である。
代名詞
代名詞は、或る基準を設けて、それとの関係によって、指示的に間接に実質的意義を表示するものである。それだから実質的意義を持っているが、場合場合によって変動する。例えば「我」「汝」「彼」「此」の類だ。
「我」に実質的意義はあるが、太郎が用いれば太郎のことになり、次郎が用いれば次郎のことになるというように、その指す所が変動する。変動はするが、その指示によってその時だけは一時定まる。
不定名詞
不定名詞は、実質的意義の定まらない名詞である。「何」「誰」「孰」「幾何」「某」「若干」等がそうだ。この中〔で〕「何」「誰」などは、その不定な実質的意義の定まるべきことを予想、或は要求する。之を疑問という。「某」「若干」等は、不定を不定のままにして、その定まるべきを予想しない。之を不問という。
□世間の普通の本では、不定名詞は代名詞の一種とされているが、私はそれはいかんと思う。
太郎と定まり次郎と定まれば、本名詞である。我と定まり汝と定まれば、代名詞である。しかし、「何」「誰」と言っては未定であって、その定まることは、太郎次郎と定まることを予想する場合も、「我」「汝」と定まることを予想する場合もあるのであるから、本名詞・代名詞のいずれへも入れられないものである。
本名詞・代名詞・不定名詞の三種は、いずれも実質的意義があるから、みな実質名詞である。この実質名詞に対して、次の形式名詞がある。
形式名詞
形式名詞は、形式的意義があるだけで、実質的意義のない名詞である。これは日本語には「者」「こと」「方」「奴」*「訳」「等」「積もり」「為」「所」「所以」「中」「儘」など非常に沢山有るが、漢文には「者」「等」「与」「及」「之」などがあるだけだ。
- 子曰、道不レ行乗レ桴浮二於海一。従レ我者其由也與。(論語公冶長)
〔子曰く、道行われず。桴に乗りて海に浮かばん。我に従う者は其れ由也るか。〕 - 今太后擅行不レ顧、穣侯出使不レ報、華陽、涇陽等撃断無レ諱。
〔今太后擅に行いて顧みず、穣侯出使して報さず、華陽、涇陽など撃断*して諱る無し。〕
上の「者」は人を指すが、実質的意義がない。ただ「者」だけでは意義が具備しないから、上の「従我」で之を補充する。「等」も人を指すが実質的意義がないから、「等」だけでは分からない。そこで上の「華陽、涇陽」で之を補充する。
「者」は訓は「もの」である。「しゃ」と読むと不完辞になるから、形式名詞としての直訳は「もの」でなければならない。「来者」「去者」などを「来るもの」「去る者」と読まずに、「らいしゃ」などと読むと直訳にならない。「等」は「ら」と読むと不完辞*になる。文法的直訳は「ら」ではなく、「とう」或は「など」である。
(松下大三郎『標準漢文法』009)
形式名詞という語は、私の新造である。世間では、形式名詞というものを一向考えていないようだ。英文典などでは、Either, Neither, Both等を代名詞の中へ入れているが、それは形式名詞という名称がないから、自然そうなったので、実は形式名詞である。
