第一節 品詞(承前)
感動詞
感動詞は、説話者自己の思想の状態を主観的に表示する語である。
- 華封人曰、嘻請祝二聖人一、使二聖人一寿富多二男子一。(『十八史略』五帝)
〔華の封人曰く、嘻請う聖人を祝わん、聖人を使て寿の富み男子多からんと。〕 - 嗟乎此吾在二術中一而不レ悟、吾不レ及二蘇君一明矣。(『史記』張儀伝)
〔嗟乎、此れ吾れ術中に在り而悟ら不、吾れの蘇君に及ば不るは明か矣。〕 - 于嗟嚜嚜兮、生之無レ故、斡棄周鼎兮、寶二康瓠一。(同賈生伝)
〔于嗟嚜嚜*たる兮、生之故無きは。周鼎を斡棄*てる兮、康瓠*を寶とす。〕 - 顔淵死、子曰噫天喪レ予天喪レ予。(『論語』先進)
〔顔淵死す、子曰く、噫、天予を喪せり、天予を喪せり、と。〕 - 哀公問、弟子孰為レ好レ学。孔子対曰、有二顏回一者、好レ学、不レ遷レ怒、不レ貳レ過、不幸短命死矣。今也則亡、未レ聞二好レ学者一也。(同雍也)
〔哀公問う、弟子孰か学を好むと為すと。孔子対えて曰く、顏回なる者有り、学を好み、怒りを遷さ不、過ちを貳びせ不、不幸命を短めて死に矣。今也則ち亡し、未だ学を好む者を聞か不る也。〕 - 君子哉若人。尚レ徳哉若人。(同憲問)
〔君子なる哉かくの若き人。徳を尚べる哉かくの若き人。〕
の●の類がそうだ。
□感動詞以外の諸品詞は、名詞・動詞・副体詞・副詞、みな概念を表す者で、その表し方は客観的である。例えば「花」という名詞でも「開」という動詞でも、それはみな概念を表すのである。
概念には、必ずそれに客観的対象がある。世の中「花」という物があり、「開」という作用がある。また妖怪とか言うような、実際には無いものの概念であっても、その存在を予想して、始めてその概念が出来る。縦令無いものでも、概念としてはこれを仮に在るとして取り扱うのである。
また自己の心内の悲しみでも喜びでも、概念としては自己が自己を客観して、他物の如く取り扱って、始めてその概念が構成される。
然るに感動詞に在っては、全く主観的である。驚いて「おや」と言うが、それは自分が驚いてのみ「おや」というので、他人の驚きに対しては、「おや」とは言わない。自分が驚いても他人が驚いても、均しく「驚いた」であるが、他人の驚いたのは、「おや」ではない。
他の諸品詞は思念を表すが、思念その物の表示ではない。「花美し」と言っても、花という概念が美しいのではなく、花という概念の対象たる、客観物が美しいのである。花の美しいのをみて「ああ」と感動した場合は、「ああ」は思念それ自身である。その思念の対象たる花は、「ああ」でも何でもない。冷なものである。
嚜嚜(モクモク):我が身に満足せず安らがないこと。
斡棄(アツキ):うちやり捨てること。
康瓠(コウコ):瓦で作った壺。つまらぬものの喩え。