『標準漢文法』020:2-1-1F感動詞

第一節 品詞(承前)

感動詞

感動詞は、説話者自己の思想の状態を主観的に表示する語である。

  • 華封人曰、請祝聖人、使聖人寿富多男子。(『十八史略』五帝)
    〔華の封人曰く、嘻請う聖人を祝わん、聖人を使て寿の富み男子多からんと。〕
  • 嗟乎●●此吾在術中而不悟、吾不蘇君明矣。(『史記』張儀伝)
    〔嗟乎、此れ吾れ術中に在り而悟ら不、吾れの蘇君に及ば不るは明か矣。〕
  • 于嗟嚜嚜、生之無故、斡棄周鼎、寶康瓠。(同賈生伝)
    〔于嗟もく嚜*たる兮、生之故無きは。周鼎を斡棄うちす*てる兮、康瓠*を寶とす。〕
  • 顔淵死、子曰天喪予天喪予。(『論語』先進
    〔顔淵死す、子曰く、噫、天予を喪せり、天予を喪せり、と。〕
  • 哀公問、弟子孰為学。孔子対曰、有顏回者、好レ学、不怒、不過、不幸短命死。今則亡、未学者。(同雍也
    〔哀公問う、弟子孰か学を好むと為すと。孔子対えて曰く、顏回なる者有り、学を好み、怒りを遷さ不、過ちを貳びせ不、不幸命を短めて死に矣。今也則ち亡し、未だ学を好む者を聞か不る也。〕
  • 君子若人。尚若人。(同憲問
    〔君子なる哉かくの若き人。徳を尚べる哉かくの若き人。〕

の●の類がそうだ。

□感動詞以外の諸品詞は、名詞・動詞・副体詞・副詞、みな概念を表す者で、その表し方は客観的である。例えば「花」という名詞でも「開」という動詞でも、それはみな概念を表すのである。

概念には、必ずそれに客観的対象がある。世の中「花」という物があり、「開」という作用がある。また妖怪とか言うような、実際には無いものの概念であっても、その存在を予想して、始めてその概念が出来る。縦令無いものでも、概念としてはこれを仮に在るとして取り扱うのである。

また自己の心内の悲しみでも喜びでも、概念としては自己が自己を客観して、他物の如く取り扱って、始めてその概念が構成される。

然るに感動詞に在っては、全く主観的である。驚いて「おや」と言うが、それは自分が驚いてのみ「おや」というので、他人の驚きに対しては、「おや」とは言わない。自分が驚いても他人が驚いても、均しく「驚いた」であるが、他人の驚いたのは、「おや」ではない。

他の諸品詞は思念を表すが、思念その物の表示ではない。「花美し」と言っても、花という概念が美しいのではなく、花という概念の対象たる、客観物が美しいのである。花の美しいのをみて「ああ」と感動した場合は、「ああ」は思念それ自身である。その思念の対象たる花は、「ああ」でも何でもない。冷なものである。


嚜嚜(モクモク):我が身に満足せず安らがないこと。

斡棄(アツキ):うちやり捨てること。

康瓠(コウコ):瓦で作った壺。つまらぬものの喩え。

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