第一節 品詞(承前)
名詞
ここに名詞というのは広義であって、代名詞を含むものである。
名詞は事物の概念を表す品詞である。例えば
山 川 天 地
文 詩 芸 才
堯 舜 夏 殷
我 汝 某 誰
一 二 十 百
などは名詞である。こういう名詞は、分かつべからざる一つの原辞から成立しているから、之を単辞の名詞という。また、
天子 庶民 動物 植物
政治 法律 仁義 道徳
足下 大人 小子 賎妾
天地人 智仁勇 東西南北 仁義礼智信
なども名詞である。こういう名詞は、二つ以上の原辞が結合して出来たものであるから、之を連辞の名詞という。二つ以上続いた漢字で書き表されるものは、多くは連辞的名詞だ。併し
琥珀 瑪瑙 蒙古 印度
伽藍 浮図 扶桑 震旦
などのようなものは、分解して各々が意義を有するものではないから、漢字は二つでも、二音の一単辞と見なければならない。又もとは連辞であったものでも、語源の分からないものは、既に単辞化したものである。
単辞の名詞は、本来の単詞的名詞であるが、連辞の名詞も矢張り、単詞的名詞である。然るにここに又連詞的名詞というべきものがある。
連詞的名詞
□連詞的名詞とは、二個以上の詞が文法上の関係を以て相連続し、その中の一つに名詞的意義があり、それが全体を代表しているものである。例えば
- 「蘇張之弁」
- 「南柯之夢」
- 「不倶戴天之仇」
- 「旁若無人之行」
- 「古之欲レ明二明徳於天下一者」
〔古之明徳を天下於明らかにするを欲する者〕 - 何則「非レ有二平生之素一、卒然相二遇於草野之間一、而命以二僕妾之役一、油然而不レ恠者」此固「秦皇所レ不レ能レ驚」而「項籍之所レ不レ能レ怒」也。(蘇東坡「留候論」)
〔何則、平生之素有るに非ざりて、卒然として草野之間に相遇し、し而僕妾之役を以て命じ、油然(ゆうぜん)とし而恠しまぬ者、此れ固より、秦皇帝の驚く能わ賦る所、し而項籍之怒る能わ不る所也。〕
の「…」の類だ。みなその●の詞が軸となって、その「…」の全体を統率代表し、全体をして一つの長い名詞たらしめる。
連詞的名詞の中には、随分長いのがあり得る。例えば
愿之言曰、人之稱二大丈夫一者我知レ之矣。「利澤施二於人一、名聲昭二於時一、坐二於廟廊一、進二退百官一、而佐二天子一出レ令、其在レ外則樹二旗旄一、羅二弓矢一、武夫前呵從者塞レ途、供給之人各執二其物一、夾レ道而疾馳、喜有レ賞怒有レ刑才畯滿レ前道二古今一而譽ニ盛德一、入レ耳而不レ煩、曲眉豐頰清聲而便體秀レ外而惠レ中、飄二輕裾一翳二長袖一粉白黛綠者列レ屋而閒居妒レ寵而負レ恃爭レ妍而取レ憐。」大丈夫之遇二知於天子一用二力於當世一者之所レ爲也、吾非二惡レ此而逃一レ之是有レ命焉、不レ可二幸而致一也。(韓愈「送李愿序」)
愿之言いて曰く、人之大丈夫と稱する者は我之を知り矣。「利澤を人於施し、名聲を時於昭昭らかにし、廟廊於し、百官を進退せしめ、し而天子を佐けて令を出し、其れ外に在りては則ち旗旄を樹て、弓矢を羅らし、武夫前に呵りて從者途を塞ぎ、供給之人各の其物を執り、、道を夾み而疾馳し、喜ばば賞する有りて怒らば刑する有り、才畯は前を滿たし古今を道い而盛德に譽あり、耳に入り而煩わ不、曲眉豐頰清聲にし而便體外に秀で而中に惠まれ、輕裾を飄して長袖を翳し、粉白黛綠者屋を列ね而閒居し、寵を妒み而恃みを負い、妍を爭い而憐みを取る。」大丈夫之天子於知遇されて、力を當世於用いる者之爲す所也、吾此れを惡み而之を逃すに非ずして、是れ命有る焉、幸而致す可から不る也。
の「…」は百十七字あって、一つの連詞的名詞である。如何に長くても、それは内部が複雑であるだけで、要するに一つの事物概念を表すものであって、その名詞としての効力は、単詞的名詞と同じである。
連詞的名詞ということが分からないと、漢文を作っても文字の顛倒を誤り易い。今名詞へ「…」を付けて例を挙げると
- 読『書』
- 読『有益之書』
- 読『最有益之書』
- 読『其於立身行道最有益之書』
『…』は、みな読まれる事物を表すのであるから、その文字はひとまとめにならなければならない。「読」はどこまでも、『…』の外でなければならない。「読」は日本語では『…』の下へ用い、漢文では上へ用いるが、要するに『…』の外である。決して「読む」が『…』の中へとびこむことはない。上の例は、これを図解すれば
- 読レ書
- 読レ有益之書
- 読レ最有益之書
- 読レ其於立身行道最有益之書
の如く長くても、 を懸けたものを一字だと見れば、何のことはない。
世の文法書は、名詞と言えば単詞的名詞をのみ指すが、私は取らない。連詞的名詞も、名詞の一種でなければならない。
連詞的名詞は、外部から観れば一つの名詞であるが、内部から見れば、二詞以上の詞の連合である。されば連詞的名詞の名詞としての本性は、詞の単独論で論ずるが、連詞的名詞の作られる方法は、詞の単独論の与る所ではない。それは詞の相関論に於いて講ぜられなければならない。
代名詞
世間の文法書は、多くは「我」「汝」「彼」「此」の類を、一品詞とし之を代名詞と称する。之を代名詞と称することは差し支えないが、之を一品詞と称することは不合理だと思う。
〔なぜなら〕代名詞も矢張り事物の概念を表すものであって、要するに名詞の一種である。その事物を表す点に於いて、それ以外の名詞と全く同一であり、その他の文法的性能に於いても、大同小異である。
されば品詞としてが名詞の中に入れ、品詞の小分に於いて、名詞の中に代名詞とそうでない名詞とのあることを言うべきである。このことはなお025で述べる。
事物の概念
名詞を定義して、名詞は事物を表すものだという以上、事物の概念を明らかにする必要がある。
文法上、事物の概念というのは、作用の主体として考え得べき概念をいうのである。宇宙間の森羅万象は、之を作用と主体とに分解して考えることが出来る。作用と主体とは、相対的に考えられるものであって、作用を発生するものが主体であり、主体から派生するものが作用である。
「花散」と言えば、「花」は主体で「散」は作用である。但し作用でも、之を作用とせずに、一つの主体として考える場合はある。その場合には、〔作用も〕勿論名詞である。
例えば「人死」の「死」は作用であるが「我豈敢不レ畏レ死哉」の「死」は、作用概念を材料として作った主体概念で、その詞は名詞だ。事物の概念は主体たり得べく、主体たり得べき外苑は、客体たり得べきものである。
「花散」の「花」は主体だが、「風散レ花」の「花」は客体である。そこで事物の概念は、作用の主客体たり得べきものとも言える。