『標準漢文法』016:2-1-1B名詞

第一節 品詞(承前)

名詞

ここに名詞というのは広義であって、代名詞を含むものである。

名詞は事物の概念を表す品詞である。例えば

山  川  天  地
文  詩  芸  才
堯  舜  夏  殷
我  汝  某  誰
一  二  十  百

などは名詞である。こういう名詞は、分かつべからざる一つの原辞から成立しているから、之を単辞の名詞という。また、

天子   庶民   動物   植物
政治   法律   仁義   道徳
足下   大人   小子   賎妾
天地人  智仁勇  東西南北 仁義礼智信

なども名詞である。こういう名詞は、二つ以上の原辞が結合して出来たものであるから、之を連辞の名詞という。二つ以上続いた漢字で書き表されるものは、多くは連辞的名詞だ。併し

琥珀   瑪瑙   蒙古   印度
伽藍   浮図   扶桑   震旦

などのようなものは、分解して各々が意義を有するものではないから、漢字は二つでも、二音の一単辞と見なければならない。又もとは連辞であったものでも、語源の分からないものは、既に単辞化したものである。

単辞の名詞は、本来の単詞的名詞であるが、連辞の名詞も矢張り、単詞的名詞である。然るにここに又連詞的名詞というべきものがある。

連詞的名詞

□連詞的名詞とは、二個以上の詞が文法上の関係を以て相連続し、その中の一つに名詞的意義があり、それが全体を代表しているものである。例えば

  • 「蘇張之
  • 「南柯之
  • 「不倶戴天之
  • 「旁若無人之
  • 「古之欲明徳於天下
    〔古之明徳を天下於明らかにするを欲する者〕
  • 何則「非平生之素、卒然相遇於草野之間、而命以僕妾之役、油然而不」此固「秦皇驚」而「項籍之怒」也。(蘇東坡「留候論」)
    何則なんとなれば、平生之素有るに非ざりて、卒然として草野之間に相遇し、し而僕妾之役を以て命じ、油然(ゆうぜん)とし而あやしまぬ者、此れ固より、秦皇帝の驚く能わ賦る所、し而項籍之怒る能わ不る所也。〕

の「…」の類だ。みなその●の詞が軸となって、その「…」の全体を統率代表し、全体をして一つの長い名詞たらしめる。

連詞的名詞の中には、随分長いのがあり得る。例えば

愿之言曰、人之稱大丈夫者我知之矣。「利澤施於人、名聲昭於時、坐於廟廊、進退百官、而佐天子令、其在外則樹旗旄、羅弓矢、武夫前呵從者塞途、供給之人各執其物、夾道而疾馳、喜有賞怒有刑才畯滿前道古今而譽盛德、入耳而不煩、曲眉豐頰清聲而便體秀外而惠中、飄輕裾長袖粉白黛綠者列屋而閒居妒寵而負恃爭妍而取憐。」大丈夫之遇知於天子力於當世者之所爲也、吾非此而逃一レ之是有命焉、不幸而致也。(韓愈「送李愿序」)


愿之言いて曰く、人之大丈夫と稱する者は我之を知り矣。「利澤を人於施し、名聲を時於昭昭らかにし、廟廊於し、百官を進退せしめ、し而天子を佐けて令を出し、其れ外に在りては則ち旗旄を樹て、弓矢を羅らし、武夫前にどなりて從者途を塞ぎ、供給之人各の其物を執り、、道を夾み而疾馳し、喜ばば賞する有りて怒らば刑する有り、才畯は前を滿たし古今を道い而盛德に譽あり、耳に入り而煩わ不、曲眉豐頰清聲にし而便體外に秀で而中に惠まれ、輕裾を飄して長袖をかざし、粉白黛綠者屋を列ね而閒居し、寵を妒み而恃みを負い、妍を爭い而憐みを取る。」大丈夫之天子於知遇されて力を當世於用いる者之爲す所也、吾此れを惡み而之を逃すに非ずして、是れ命有る焉、幸而致す可から不る也。


の「…」は百十七字あって、一つの連詞的名詞である。如何に長くても、それは内部が複雑であるだけで、要するに一つの事物概念を表すものであって、その名詞としての効力は、単詞的名詞と同じである。

連詞的名詞ということが分からないと、漢文を作っても文字の顛倒を誤り易い。今名詞へ「…」を付けて例を挙げると

  1. 読『書』
  2. 読『有益之書』
  3. 読『最有益之書』
  4. 読『其於立身行道最有益之書』

『…』は、みな読まれる事物を表すのであるから、その文字はひとまとめにならなければならない。「読」はどこまでも、『…』の外でなければならない。「読」は日本語では『…』の下へ用い、漢文では上へ用いるが、要するに『…』の外である。決して「読む」が『…』の中へとびこむことはない。上の例は、これを図解すれば

  • 有益之書
  • 最有益之書
  • 其於立身行道最有益之書

の如く長くても、 を懸けたものを一字だと見れば、何のことはない。

世の文法書は、名詞と言えば単詞的名詞をのみ指すが、私は取らない。連詞的名詞も、名詞の一種でなければならない。

連詞的名詞は、外部から観れば一つの名詞であるが、内部から見れば、二詞以上の詞の連合である。されば連詞的名詞の名詞としての本性は、詞の単独論で論ずるが、連詞的名詞の作られる方法は、詞の単独論の与る所ではない。それは詞の相関論に於いて講ぜられなければならない。

代名詞

世間の文法書は、多くは「我」「汝」「彼」「此」の類を、一品詞とし之を代名詞と称する。之を代名詞と称することは差し支えないが、之を一品詞と称することは不合理だと思う。

〔なぜなら〕代名詞も矢張り事物の概念を表すものであって、要するに名詞の一種である。その事物を表す点に於いて、それ以外の名詞と全く同一であり、その他の文法的性能に於いても、大同小異である。

されば品詞としてが名詞の中に入れ、品詞の小分に於いて、名詞の中に代名詞とそうでない名詞とのあることを言うべきである。このことはなお025で述べる。

事物の概念

名詞を定義して、名詞は事物を表すものだという以上、事物の概念を明らかにする必要がある。

文法上、事物の概念というのは、作用の主体として考え得べき概念をいうのである。宇宙間の森羅万象は、之を作用と主体とに分解して考えることが出来る。作用と主体とは、相対的に考えられるものであって、作用を発生するものが主体であり、主体から派生するものが作用である。

「花散」と言えば、「花」は主体で「散」は作用である。但し作用でも、之を作用とせずに、一つの主体として考える場合はある。その場合には、〔作用も〕勿論名詞である。

例えば「人死」の「死」は作用であるが「我豈敢不死哉」の「死」は、作用概念を材料として作った主体概念で、その詞は名詞だ。事物の概念は主体たり得べく、主体たり得べき外苑は、客体たり得べきものである。

「花散」の「花」は主体だが、「風散花」の「花」は客体である。そこで事物の概念は、作用の主客体たり得べきものとも言える。

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