第二篇 詞の単独論
第一章 詞の本性
第一節 品詞
〔品詞の種類〕
吾々が文法学に於いて、詞の性能・詞の本性というのは、文法的性能・文法的本性のことである。
月を太陰と言えば暦学的で、嫦娥と言えば詩的で、月亮と言えば鄙俗であるが、そういうこともその詞の性能には違いないけれども、それは文法には何等の関係の無いことで、文法的性能ではない。文法的性能は、詞が断句となって説話を構成する上に、直接に関係する性能でなければならない。
詞の本性の相違は、即ち詞の種類を成す。それ故詞の本性を明らかにするには、詞の分類に依らなければならない。そうして詞の分類は、その断句を構成する上に重大の関係を有する、根本的な本性に基づいて行われなければならない。
日本の多数の文法書は従来、詞を分類して
名詞 | 代名詞 | 動詞 |
形容詞 | 副詞 | 接続詞 |
助詞 | 助動詞 | 感動詞 |
の九品詞とした。この分類は、詞と原辞とを混同したものであって、甚だ不合理である。殊に漢文に於いては、適用しようがない。漢文には助詞、助動詞などは無い〔からだ〕。そうして九品詞の中に入れられないものも有る。
英文典では通常
名詞 | 代名詞 | 形容詞 |
動詞 | 副詞 | 前置詞 |
接続詞 | 感動詞 |
の八品詞を立てている。漢文法では、日本文典の九品詞に因るよりは、この方がやや適当である。中にはこれに由った漢文典もある様である。併し矢張りこれも不適当と思う。
英文典は、もとギリシア文典ラテン文典の模倣であるが、それとても相類似したアリアン語族の文典であるから、その八品詞で曲がりなりに英文法が解かれている。日本文典の九品詞は、英文典の模倣であるが、多少改造されているから、矢張り曲がりなりに日本文法が解かれている。しかし漢文法を解くに、之をそのまま採用することは出来ない。
吾々は、曲がりなりということは好まない。それ故英文典や日本文典を模倣して漢文に適合するようにするということは、学に忠なる所以ではないと思う。如かず*、世界に共通普遍なる人間言語の根本法則を探求し、いずれの国語にも適合するように詞を分類すべきだと思う。そうして説かれた漢文法が、真の漢文法であろう。
如かず:そうではなく。
詞の本性と詞類
詞の性能は、之を五種に分かつことが出来る。そうして詞の大概は、この五種の性能の一つを有する。そういう詞を単性詞と言う。単性詞はその有する性能の如何によって、五種に分かたれる。然るに詞の中には一詞でありながら、二つ以上の性能を有するものがあり得る。そういう詞を複性詞という。
そこで凡ての詞は五種の単性詞と、もう一つの複性詞との六種に分かたれることになる。即ち
- 名詞 :事物の概念を表す。
- 動詞 :作用の概念を表す。
- 副体詞:他概念の実体に従属する属性概念を表す。(→016に説く)
- 副詞 :他概念の運用に従属する属性概念を表す。
- 感動詞:未だ概念化せざる単純なる観念を主観的に表す。
- 複性詞:無関係なる二つ以上の概念を表す。(→019に詳し)
この六種である。この六種の各々を品詞と名付ける。世界にありとあらゆる国語に存する総べての詞はこの六品詞の中のいずれかに属する。所謂る代名詞、形容詞、接続詞、前置詞等もみなこの六種の中のいずれかに属するのである。
□五種の単性詞は、みな一個の性能を持っている。例えば名詞ならば事物を表すという性能、動詞ならば作用を表すという性能を持っているように、その有する性能が一つだ。併し中には、二個の性能を持っておって、その中の一個が他の一個を統率して之を自己に従属せしめ、自己が全体を代表しているのがある。例えば
- 子曰君子恥三其言之過二其行一。
〔子曰く、君子は其の言の其の行いに過ぎるを恥ず。『論語』憲問篇29改〕
の「過」は、「言」の「行」に対する作用を叙述する点は動詞的性能を有し、その「恥」の客体を表す点は名詞的性能を有するが、これは名詞的性能の方が「過」の意義の全体を代表しているから、「過」という全体を一つの性能だと見ることが出来る。
二性能が一性能化したものと見ることが出来る。こういうのを変態詞という。変態詞はその代表的性能によって、名詞・動詞・副体詞・副詞・感動詞のいずれかに属せしめられる。だから変態詞は、全く無関係の二概念を表す複性詞とは違い、単性詞の一種と見られる。