『標準漢文法』012:1-2-1C文法学の総論と各論

第二節 文法学の体系(承前)

総論と各論

総論

総論は、文法学の全般に関する一般的事項を論ずる。そうしてその一般的事項の中には各論を導き出すべき予備的知識と、各論を統一すべき整理的知識とを含むべきであるから、総論は緒論と結論の二つに帰すべきである。

されば巻首に緒論を置き巻末に結論を置くことは論文の常であるが、書籍としては緒論と結論とを混合しても差し支えはなかろうかと思う。

総論の内容には二つの問題がある。一は、言語の本質及びその諸相を論じ、且つ文法学の体系に関係すべき諸問題を論じ、一は、文法学の本質及びその諸相と、文法学の体系を論ずるに在る。

各論

各論は、文法のそれぞれの部分を詳論するものである。西洋文典の常として各論はEtymology*とSyntax*との二部に分かたれている。私のいう詞の単独論と相関論とはほぼこれと同じものである。

併し注意すべきことは、西洋のEtymologyとSyntaxとは、その何論であるかが甚だ明確でない点があるが、私のいう詞の単独論と相関論はいずれも詞論である。

言語は、原辞・詞・断句の三階段を成すものである。そうすれば一寸考えると、各論は原辞論・詞論・断句論の三分科を成すべき様であるが、それは常識であって科学的な分かち方ではない。

日本の文法書は原辞と詞とを混同して品詞と言い、断句を文章と言っているから、各論は品詞論・文章論の二つに分かつべき様に見える。そうして日本の文法書はたいてい、品詞論・文章論の二分科を立てている。これ原辞論・詞論・断句論の三分科と同様で、常識的な分科である。


Etymology:語源研究、語源学。

Syntax:統語論。文中の単語・語群の配列様式とその機能の解明などを研究対象とする学問。

文章論の不可

□私は文章論(即ち断句論)というのを認めない。文章論を文章構成論だと解するならば、文章論即是文法学であって、文法学の一分科ではないことになる。

文法学の一分科としての文章論は、文章として既に出来上がったものの、諸運用の論でなければならない。即ち品詞論を含まないものでなければならない。

然るに文章として出来上がったものは、最早これは説話の一単位であって、どんな長い説話でも、ただそれを沢山重ねれば善いのであるから、特に文法学の一分科として論ずべき何物をも存しない。説明文だとか命令文だとか疑問文だとかいう様なことを言うが、それはその内部に使用された動詞の区別であって、それらの事は動詞の用法として詞論に属するものである。文章論として論ずべきものは一つもない。

世間の文法書の文章論に論ずる所は、主語・述語・客語・修飾語等の問題、即ち詞と詞との相関論である。詞々の相関論以外に何物もないのである。詞々の相関論は詞論であって、文章論ではない。

□詞と詞の結合は即ち詞論である。それには「月」と「出でば」と結合して「月出でば」となるような場合と、「月」と「出づ」と結合して「月出づ」となるような場合と両方ある。前者はただ連詞を成すだけで文章にはなっていない。後者は連詞を成した上文章になっている。

前者のような場合には、詞々相関論は決して文章論ではない。ただ連詞論である。後者のような場合には、詞々相関論は即ち文章論であると同時に、連詞論である。この意味に於いて文章論が成立するというならば、主語と述語の相関論は文章論(例えば文章「月出づ」の「月」と「出づ」の関係を論ずる)と詞論(例えば連詞「月出でば」の「月」と「出でば」の関係を論ずる)と両方に分かたれなければならない。

〔しかし〕それでは文章論と詞論と重複するのみならず、同じ主語と述語の相関論が、二カ所に分かれる不合理を免れない。それだから私は詞々相関論を詞論の方に入れて、文章論というものを認めない。

「月出でば」は一つの連詞であるから、「月」と「出でば」の相関論は詞論である。「月出づ」は文章であるが矢張り一つの詞(連詞)であるから「月」と「でづ」との相関論も詞論である。そういう風に凡てが詞論に入れられる。文章論というものの成立する余地がない。

これに反してもし詞々相関論を詞論から奪って、詞論はただ詞の単独論であるとしたならば、背理に陥るであろう。何となれば、「月出でば」に於ける「月」と「出でば」との相関論は、何論にも属しなくなる〔からだ〕。「月出でば」はまだ文章ではないから文章論へ入れる事は誤りであるし、詞論へは入れないと決めた以上は、入れ場所が無くなる。

□文章は必ずしも二詞より成るものではない。「然り」「否」などのように一詞からも成立する。されば単詞または連詞が文章になる能力のあることの論や、またどういう場合に文章になるかの論は、これは詞の性質論上の問題である。文章論という一分科は成立しない。

□文章(断句)は凡て詞(単詞あるいは連詞)であるから、文章論は一分科をなさずに、自然に詞論の中に含まれるのである。

勿論断句の中には連断句というものがある。連断句は断句と断句の連結であって、一方の断句が他の一方に従属するものであるとも言えるが、しかしその従属する〔も〕のは、断句たる資格を失って詞の資格として従属するのであり、従属される方も、詞の資格を以てこれに対するのであるから、やはり詞と詞の統合であって、当然詞論上の問題である。

言語:原辞<詞<断句

□然るにここにまた原辞というものがある。詞の中〔でも〕単詞は原辞より成るが、連詞は詞と詞から成るのであって、原辞と原辞から成るものではない。詞が相集まって連詞を成すのはそれは詞としての運用であって、原辞としての運用ではない。

故に原辞論は詞論の中へは含まれない。されば文法学の各論は、原辞論と詞論との二つになるはずである。所が漢文では、原辞は殆どみな完辞であって、そのまま詞になる。不完辞というものが殆どない。それゆえ日本文法学では、原辞論は各論の一分科を成すが、漢文では原辞論は総論の中へ略説すれば済むので、一分科を立てるほどのものではない。

故に私は、漢文法に於いては原辞論というものを立てず。ただ詞論をのみ立てる。そうして詞論を単独論・相関論の二分科に分ける。そのうちには原辞論も文章論も含まれているのである。

単独論は詞(単詞あるいは連詞)の単独に有する性質用法を論じ、相関論は詞(単詞あるいは連詞)の相対的関係を論ずる。西洋文典で文法学の分科をEtymologyとSyntaxの二つとするのはこの精神である。

Etymology, Syntaxの二つを訳して、単独論・相関論と言えば善かったのに、単語論・文章論と訳したために、日本の文法家がその本質を誤解したのである。

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