『標準漢文法』004:1-1-2A思念構成の二段階

第二節 言語の構成

思念構成の二段階

言語の内面は思念である。思念の構成には二つの段階がある。それは一つは観念で、一つは断定である。

観念

刺戟*によって生ずるものは知覚である。知覚は刺戟が去ればすぐに消滅する。例えば物を見ればものが見えて物の視覚を生ずるが、目を閉じれば見えなくなる。しかし知覚は刺戟が去っても長く心意に保持される場合がある。これを観念という。

観念が知覚によって生じたままであればその間に分解作用が行われておらない。物の本体も属性も作用も一所になっている。そういう観念は抽象されないもので、その対象はただ一つである。例えばある一つの物を見てもそれが何であるかという様なことを全然考えないとしたならば、その観念はその物を対象とするだけで他物に対する普遍性がない。

こういう観念を具体的特殊的観念といい、また単に観念という。

観念は分解されてその中のある点だけが一つの観念となり、他物の同様なる点と共通性を持つ場合がある。例えば別々に多数の物を見て別々の特殊的観念が生じても、その物が皆白い物であったならば、各々の観念には白いという共通点がある。この共通点だけが一つの観念となれば、この観念は今まで見た物を対象とするのみならず、別の白い物をも対象とすることが出来、遂には架空の白い物を対象とすることが出来る。

こういう抽象的普遍的の観念を概念という。通常観念という時はまだ概念とならない観念を指す場合が多いが、概念も勿論観念の一種である。

概念は分解されて二概念となると同時に、その二概念は同一意識内に統合されて一概念となる。例えば「母」という概念は「女」「親」の二概念に分解されるが、この二概念は一方が一方に従属し、一方が一方を統率する関係を以て統合されて「女の親」という一概念となる。「女の親」は一概念ではあるが、内部に区別があって、二概念が相関係している。

こういうのを統合概念といい、最初の「母」「女」「親」の様なのを単概念という。統合概念は必ずしも単概念と単概念との統合だけでなく、単概念と統合概念との統合もあり、統合概念と統合概念との統合もあるのである。


刺戟:刺激。

断定

断定は事柄に対する主観の了解である。断定はその了解〔の〕され方によって思惟性断定と直観性断定の二つに分かたれる。

思惟性断定は判定作用による了解である。事柄に対する観念が二つに分解されて、一は判断の対象となり、一は判断そのものの観念となって、この二つが同一意識内に統覚*される。この作用が判定作用でその作用の結果が思惟性断定である。

例えば人が花を見たとすると、花の色や形や美しさや、そういう種々の属性は一所になって人の心意に認識されて一つの観念となる。この観念が分解されて、「この花は」という概念と、「美しい」という概念との二概念となったとする。前者は判断の対象で後者は判断そのものである。この二概念が統覚されて「この花は美しい」という一つの断定となる。

この断定は思惟性断定である。この例は判断の対象も判断も両方とも概念になった場合であって、これを有題的思惟性断定という。

また判断の対象が概念とならずに判断だけが概念となる場合がある。例えば時計を見て「やあ、もう十二時だ」と考えたとする。判断の対象は現在の時刻の観念であるが、それは概念になっていない。人が公園へ行って「綺麗な花が咲いているなあ」と言ったとする。「花が」は「咲く」という動作の主であって、これは判定概念の一部であるだけで判断の対象ではない。

判断の対象は現在見た所の直観であって、まだ概念になっていない。こういう様なのは無題的思惟性断定である。

直観性断定は判定作用に由らずに直感的に了解された断定である。事柄に対する観念が直観のままであって、判断の対象と判断そのものとに分解されないものである。

例えば掏摸児すりを追っかけて「泥棒々々」と叫び、渇して「水々」と叫ぶような類だ。これらは概念にはなっているから、これを概念的直観性断定という。

また物に驚いて「あら」と叫び、失望して「あゝあ」と嘆息したとする。こういうのはその直観のままの観念はあるが、それが概念となっていないから、これを非概念的直観性断定とする。

□断定はまたその観念流の系数*に由って、これを単流断定、並流断定の二つに分ける。

単流断定とは一系の観念流より成る断定である。思惟性断定について言えば、判定の対象が一つであって、判定そのものも一つであるならば、対象観念から判定観念へ流れる観念流は唯一系である。例えば「この花は美しい」でも「月が出た」でもそうだ。直観性断定について言えば、「父よ」「君よ」「あゝ」「いて」の類がそうだ。

並流断定は二系以上の観念流が一系に統一されているものである。思惟性断定について言えば、判定の対象と判定そのものとの、一方または双方が、二つ以上あった場合にそうだ。例えば

  1. 周公 孔子聖人也。
    〔周公、孔子は聖人なり。〕
  2. 秦者秦也六国
    〔秦を滅ぼす者は秦なり。六国にあらざるなり。〕
  3. 蘇秦 張儀 小人也君子
    〔蘇秦と張儀は小人なり、君子にあらざるなり。〕

などは並流断定だ。直観性断定に於いても、二つの観念がその実質に於いて相従属しないものより成るときは並流だ。例えば「李張二君」と呼びかけた様な場合はそうだ。

断定の成分は観念(概念を含む)である。如何なる断定も皆必ず観念から成立する。成分と言うと必ず二つ以上の様に聞こえるかも知れないが、必ずしも二つ以上とは限らない。時には一つの成分から成り立つこともある。例えば驚いて「おや」と叫んだとすると、「おや」は一つの直観性断定であるが、その成分は矢張り「おや」という観念である。

断定は観念から成立するが、その断定もまたこれを客観的に取り扱えば、一つの概念である。例えば「友人帰故郷」は一つの断定である。併し、

  • 我送「友人帰故郷
    〔我友人の故郷に帰るを送る。〕

という時の「友人帰故郷」は一つの概念(統合概念)である。断定はこれを主観的に見て断定であるのである。その了解が断定なのである。その了解の目的物或はその了解の対象は観念或は概念である。


統覚:〔哲学・倫理学・美学〕対象に対する多様な経験を総合し統一する作用。〔心理学〕意識の内容がはっきりと知覚される作用。

観念流の系数:観念の系統の数?

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