『標準漢文法』003:1-1-1C漢文訓読

第一節 言語の本質及び諸相(承前)

〔漢文訓読〕

漢文の日本読みの価値

□日本人は漢文を日本読みにする。それで漢文直訳体なる一種の文体を作った。千年以上も此の直訳に慣れてきた日本人は漢文を読むこと普通の日本文を読むのと大差なく、訓点さえ有れば余り漢文を読み慣れない人でも能く読むのである。

それは漢文に慣れなくても漢文直訳体には慣れているからである。そうして漢文の趣味を味わう能力は支那人と殆ど変わりはない。支那人の九十九パーセント位には行くかと思われる。これは実に二千年の歴史が有るからである。

□併し漢文を書き下しにしては原文の趣はなくなる。往年国訳ものが沢山出版されたが、国訳にして仕舞うと漢文直訳体の文というものは誠につまらないものになる。其れは原文のままであれば漢文の長所が発揮されるが、国訳にすると其れがなくなるからである。

漢文の長所は文字の排列に在る。意味が分かる様にする為に吾々は顛倒したり、訓読したり、助辞を付けたりして読むが、それは眼の方には関係しない。読み方は日本語であっても眼で観ては何処までも漢文である。読んでも意味が分かり、観て漢文の趣が分かる。実に巧妙なものである。

□私は今、一つの喩えを引く。ここに西洋物の活動劇が有るとする。固より西洋の活動役者が演じたものであるが、弁士は非常な名人で、日本語でやる。所作と言語とがきちんと合う。観客は弁士の有ることを忘れ活動映画であることを忘れて通常の演劇の様に思う。これが即ち漢文の日本読みである。活動写真の映画は舶来物で漢文だ。〔しかし〕弁士の声色は日本読みである。

この活動写真を英国でやり英国の弁士が英語で声色を使い、そうして英人が見物する。それは漢文を支那人が読むものである。この場合には前の日本人観客と此の英人観客との活動劇に対する趣味の感受力にどれほどの差が有るか。殆ど差は無かろうと思う。

□然るに近時漢文を棒読みにしようという説が有る。中学の漢文科でも棒読みにするが善いという。私は此れは非常な誤りと思う。漢文は棒読みにしては味や気分が分かるものではない。前の活動写真の弁士の声色を英語にしようというのと同じである。五年や十年習った英語の力ではその活動劇の趣味がよく分かる筈がない。

外国語の不可解

日本人にも外国語の達者な人は有るであろう。併し其れは意味が分かるだけで真の味まで分かるものではない。凡そ人の能力には限りが有る。一人で真に二国語に通ずる人はない。二国語に同じ様に通じて甲乙のない人が有ったならば、其れは両方とも善くは分からない人である。

日本語が十分分かる間は外国語が出来ると云っても本国人の様には行かない。漢文の棒読みでもそうである。支那語をやる人の中には赤壁賦などを支那読みにして通がる者が有るが、それは支那読みで味が分かるのではなくて、既に日本読みで十分分かって居る漢文を支那読みにして見るだけである。

突然始めて見た漢文を支那読みにしては到底、その真の味は分からない。だから日本人は漢文を読むのに棒読みにしてはならない。喩えば見えの為に満足な歯を抜いて金歯を入れたり、家庭をよく治める立派な夫人を現代的でないと云って離縁して断髪婦人*か何かを引っ張り込むより馬鹿げている。


断髪婦人:第一次大戦後、日本で流行したボブカットなどショートヘアの女性。モダンガールなどと称され、見る人によっては著しい西洋かぶれに見えたらしい。

訳者九去堂の学生時代にも、漢文を現代中国語読みするのだと力んでいた人は身近にいた。とても出来そうに見えなかったので、はぁさいですかと伺って済ませたが、その後漢文が読めるようになったという話を聞かないから、やはり無理だったのだろう。

思うに漢文訓読を嫌がる人というのは、その多くが大学受験時に日本古文で苦労した人だろう。まことに気の毒だが、入試古文程度で躓いているようでは、いくら漢文だけ勉強しても、柱や壁が無いのに屋根だけ架けるようなもので、訓読はおぼつかないと申し上げるしか無い。

もちろんものを習うのに遅いも早いも無いから、入試をとうに過ぎた人が一から漢文の訓読を学ぶのに不都合は無い。ただし入試古文程度は習得しておかないと、やはり漢文訓読はおぼつかない。もしそういう人があれば、高橋正治著『古文読解教則本』を勧める。

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