『標準漢文法』002:1-1-1B漢文と日本語

第一節 言語の本質及び諸相(承前)

〔漢文と日本語〕

漢文は支那語並びに日本語である

□漢文を単に外国語である、支那語であると思うのは非常な誤りである。私は漢文には支那語としてと日本語としてと両面が有ると思う。このことを論ずる為には先づ日本人の漢文と支那人の漢文との二段に分けていうが善いと思う。

日本人の漢文は日本語

□日本人は漢文を支那語として読まずに日本語に直して読む。漢文を作る場合にも心中に日本語を作りつつ之を文字に書き表すのである。その出来上がった漢文は支那人が読めば漢文であるが、日本人が読めば文字が顛倒していて仮名が無いだけで何処までも日本語である。

その漢文らしい点は目で見た感じが漢文と同じだと云うだけで、読む際に発する言語が日本語である〔こ〕とは勿論、黙読する際に喚起される語音の心象も、作る際に喚起される語音の心象も、悉く日本語音での心象である。何処に漢文たる点があろうか。漢文としての価値は、支那人が是認するであろうという予想価値に止まるのである。日本人の作った漢文は何処までも日本語であって漢文ではない。

日本語を作って其れを文字に表し、読む際にも日本語で読むのに、それを目で見たままの外形からのみ観て、日本語ではない漢文だと云うならば、吾妻鏡流の文章*は何であるか。勿論支那人には通じないから漢文ではなく、文字が顛倒しているから日本語ではなく約り*何処の国語でもないということになる。そんな文章が有る筈は無い。

それを思えば日本人の作った漢文は文字の顛倒した日本文であるということが分かる筈である。日本の文にはその字法が二種ある。直置体と顛倒体とである。顛倒体の中に漢文と合致するものと合致しないものとの二種がある。

日本文学史に於いても日本人の漢文は之を等閑に附すべきではないと思う。私はこのことを明治二十八年の秋或る雑誌に論じたことがあったが、何等の反響を聞かなかった。


吾妻鏡流の文章:鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』の文体は変体漢文と呼ばれ、見た目は漢文だが、読みはやまと言葉として読む。加えてやまと言葉の表記のため、純粋漢文とは異なった文法に従う表記がある。その流れを汲むのが、手紙に用いられた候文で、中国語としては意味が通じない。

約り:つまり?

支那人の漢文も日本人には日本語

□然らば支那人の漢文は単に支那語たるのみで日本語たる場合は全然ないかというと、これも私はそう思わない。支那人が読めば支那文であるが、日本人が読めば之を支那語で読まずに日本語で読むのであるから矢張り日本文だと思う。

作者が支那人であろうが日本人であろうが、読む人が日本語で読めばその読む人に対して相対的に日本語である。作った人の作る時の心意状態などは読む人に対しては問題ではない。読んだ時の読み方がそれの日本語か支那語かを決めるのである。

虫が木を*んだ跡でも其れが立派に和歌として読めれば其れは読む人に対して日本語である。同時に日本人の漢文でも支那人が読めれば読む者に対しては支那語であり支那人の漢文でも顛倒して読む日本人に対しては日本語であらなければならない。

凡そ文を読むということは其れは一種の作文である。再現的に作るのである。目に映る文字に導かれつつ知らず識らず文を作るのである。その作られたものが日本語である場合はその文章は日本語なのである。

されば文字語は、之を絶対的に、日本語である支那語であると云うことは出来ない。作った人又は読む人に対して相対的に日本語である支那語であると言えるだけである。

□支那人の手に成った経書、子類、正史、詩文等沢山の漢文は日本人に愛読される。此れ等皆読者に対して日本語である。そうして此れ等の思想がどれだけ日本人の思想に影響しているか、其れは非常なものである。日本の文学史は唯之を影響と考えてはならない。

日本語に表された文学が日本文学であるならば、此れ等は皆日本文学である。作者が支那人であろうが日本人であろうが其れは日本文学である点に於いては変わりはない。

但し源氏物語や太平記の類ならばその作られた時代を文学史上の時代として取り扱うのであるが、易や詩経を、その作られた時代を以てして直に日本文学史上に於ける時代とすることは出来ない。何となれば日本文学としては日本人が始めて読み始めた時代が日本文学史上の時代なのであって、日本人の読まなかった以前は日本文学には関係の無いことである。

□日本人は漢文を日本読みして漢文を日本語に同化して仕舞った。此れ世界文学史上驚くべき大事業である。日本人の祖先の偉大であった点はここにも十分に認められる。英文などもそうなるべき筈であった。

然るに近代人は其の所へ気付かずに直訳を捨てて意訳に走ることになった*。明治の初年に企てられた直訳は今日では蕩然*として地を払いわずかに直訳的句調の若干を現代文に伝えるに過ぎなくなったことは誠に惜しむべきことである。


:=蠹。木食い虫、(虫が)食う。

蕩然:溶けるように。

直訳を捨てて…:訳者九去堂の感想として、大いに首肯できる点がある。かつて大学受験の際に、まともな大学では古文を意訳すれば通らない、と知った。その後もあれこれの経験から、意訳意訳と口にする連中は、おおむね直訳が出来ないから言っているだけと分かった。漢文訓読とは原文を日本古文に書き換える作業で、日本古文は機械的に現代日本語に置換できねばならない。

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