春台先生、礼記を語る(1)

礼は天下の万事の儀式を取り仕切る

太宰春台
太宰春台

礼とは、天下の万事の儀式を言う。礼に五礼があって、一つ目を吉礼と言って、祭祀の儀式である。二つ目を凶礼と言って、喪礼である。喪とは人の終わりを悼む道である。三つ目を賓礼と言って、賓客の礼である。四つ目を軍礼と言って、軍隊の礼である。五つ目を嘉礼と言って、冠婚の類である。冠礼は元服を指し、婚礼は妻を娶る礼である。

万事の儀式を五つに分類して、吉凶賓軍嘉の五礼でよろずの儀式を取り仕切るのである。また冠婚喪祭の四つは、天子から庶民まで無くてはならない礼である。

このほかにも、昔は郷飲酒士相見の二礼があった。郷飲酒礼は、郷党の人に酒を飲ませる礼である。士相見礼は、家老格(大夫)と平侍(士)とが会見する礼である。冠婚喪祭にこの二つを加えて、六礼とも言った。

五礼の類は、先王の時代からその作法や項目や式次第が決まっていたから、先王による制定だと言う。冠婚喪祭のようなものは、礼を貫く縦糸だから、経礼という。その箇条の数が、おおよそ三百余りあるので、経礼三百という。

経礼には更にそれぞれ細目の定めがあり、宮殿への昇降・殿中での小走り・起立着席・拝礼・上座への進退・その他の移動の定めが、おおよそ三千余りあるので、曲礼三千という。あるいは、礼儀三百、威儀三千とも言う。

この三百三千の礼儀は、みな一々師匠の教えを受けて、その作法に習熟していないと、実地で礼を行うことが出来ないので、聖人の孔子でさえ老子に就いて学びたもうた。孔子に及ばない者は言うまでも無い。

後世の儒者は、孔子は聖人であって生まれつき何でも知り何でも出来たから、何事も学ばないで知りたもうたのに、「学んで厭わず」とのたまったのは、人を励ます謙遜の言葉だという。これは大きな間違いだ。全て礼楽は学びごとであって、師匠の教えが無ければ、聖人も知りたまうことが出来ないのだ。

礼書礼経というものはあるが、ただ礼の項目や式次第を書き付けてあるだけで、実際にどうやるかは、必ず伝授されてやっとはっきり分かるのだ。

現代の俗な礼儀ですら、次第書きのようなものがあるだけで、師匠の口伝や指導を受けないと、礼儀通りに行えない。これが先王の礼なら言うまでも無い。祭礼は孔子も学んで知りたもうたが、主君の祖先祭殿で祭祀の補助を務めたもうた際、所作ごとに必ず人に確認し、「これ礼なり」とのたもうた事からも、礼の重さが分かるだろう。


坂井末雄編『漢文読書要訣』より。

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