『漢文研究要訣』を読む:はじめに

書き下されていない漢文を、読解する需要は今なお皆無ではないと思う。大学で中国史や中国文学・思想を学ぶ人はもちろん、日本史や日本文学・思想、さらに仏教関係や法学の一部でもその必要があるかも知れない。しかし読解法を教える教科書に、よいものが見あたらない。

漢文の参考書は九分九厘、大学受験用に限られ、しかも入試で漢文を課す大学が減り、その出題もごく易しいものに限られている。正直、要領のいい受験生ならば、三日で受験勉強が終わる程度のことしか問われない。だからそれらの書籍では到底、漢文読解はおぼつかない。

となれば大学側で、上記のような専攻を志望する学生対象に、漢文読解法を講義すべきなのだが、それにふさわしい解説書がほとんど見あたらないことから、今なお学生側に丸投げと見える。この九去堂も学生時代、まともに漢文読解を教わった覚えがない。

教えもしないで読め読めと強要するSM構造が、ひいては漢文業界の禄で無さを生んでいると思っている。今はさすがにいかんということか、僅かながらまともな解説を目指した本があるようだが、中国での中国語文法の引き写しであったりして、どれも成功しているとは言い難い。

そこでここで取り上げる『漢文研究要訣』は、書名の頭に「文検受験用」と銘打っており、「漢文」の下に「白文訓読・復文作文・支那時文」と但し書きが付いている。出版年は1925年で、大正十四年と言えばすでに遠い歴史の彼方だ。にもかかわらず読む価値を感じた。

ここで言う「文検」とは旧制中学校の教員採用試験で、この本によると当時の国語教員は、漢文に句読点も付けないダダ続きの白文を読まされたばかりか、句読点を付け、返り点を付け、送り仮名を付けた上で、書き下しを元の漢文に戻したり、漢作文までさせられたらしい。

これは当時の社会に於ける漢文の地位を示すもので、加えて同時代の漢文をも読み書きさせられたようだから、言わば現代中国語もその範疇に入っていたことになる。驚くほど程度が高い。旧制中学校時代に創設された新制高校を出た訳者の経験からは、考えられないことだ。

およそ高校の教員で、白文を読めるような人に出会ったことがない。ついでに大学や大学院でも、大して違いは無かった。この人漢文読めるなぁ、と感じ入ったのは、助手を務めておられたO先生ぐらいのものだったと記憶する。対してこの本の説く所、同程度の漢文力を感じる。

若い頃にこの本に出会っていたらなあと、感じないでもない。言わば白文の読解教則本で、とりあえず漢文を読む方術としては、甚だ有効だと感じてテキスト化することにした。松下文法のように学理としての文法も大事だが、実用的な需要としては方術もまた重要だろう。

特殊の言語に存するその国文法を記述するものである。固より科学であるから理論を無視する訳ではないが、理論より具体的の事実を主とする。今日普通に存する文法書はみなこの流である。その目的は読書作文に応用するに在るのであるから、学科であると同時に一面から言って一つの方術である。松下大三郎『標準漢文法』記述文法学

眼前に人参がぶら下がった馬はよく走る。中学教員になりたい大正人も同じだったろう。そのお馬さん達に与える人参獲得法は、きっと実用性が高いに違いない。威張り返って何もしない漢学教授様と違って、目が血走ったお馬さん達の、市場の選択に晒されるからである。

さて方術としてこの古い本を電脳空間上に挙げるからには、思い切って原文を省略しまた書き改めることにした。省いたのは著者の説く当時の受験事情や四方山話、さらに漢文を読むに当たっての基礎教養の部分。原書では第一篇の第一章と二章がそれに当たる。

省いた理由は、こんにち漢文を原文で読もうとする人が、高校程度の中国地理や中国史を知らないとは考え難いからで、しかも本書に記された内容に、今日的価値があるとも思えない。加えて戦前特有のまどろっこしい言葉の言い廻しも、思い切って改めることにした。

それでも原書が気になる方は、国会図書館所収の元データを参照して頂きたい。なお<hr>罫線で区切った部分、〔キッコーかっこ内〕は訳者九去堂による加筆である。とりわけ注意して頂きたいのは、〔書き下し〕は九去堂によるもので、誤りがきっとあるはず。

そして正解を示して下さると、とても有り難い。

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