『標準漢文法』010:1-1-1A文法学の本質

第二章 文法学
第一節 文法学の本質及び諸相

〔文法学の本質〕

学問

学問は理論的知識である。知識と知識の間に存する理論によって第三の知識に到達するものであって、研究の作用と研究の結果との両面を持っている。学問は知識であるが理論的知識でなければ学問ではない。

例えば夏と冬と昼夜に長短の別のあることは誰でも知っているが、これは単純な常識であって学問ではない。それが地軸の傾斜によって起こるという理論が分かって始めて学問である。

科学

科学は一科の学問である。相関係する多数の理論的知識が一つの体系に統一されているものである。科学の「科」は体系的を意味し、「学」は理論的知識を意味する。科学は知識であるが、それが理論的知識であると共に体系的であることが必要である。

夏の日の長いことを知っただけでは理論的知識ではなく、それが地軸の傾斜によることを知ったならば理論的知識であるが、単一なる知識であって科学ではない。ただ科学の一部分たるに過ぎない。それら相関係する諸知識が体系的に整理されて地文学とか気象学とかいうものになって、始めて一つの科学なのである。

科学の中には歴史などのように具体的な現象の研究であって、そのまま直接に他に応用されないものもある。これを具体的科学という。また物理学、心理学などのように、ある現象間に存する抽象的法則の研究であって、直接に他に応用することの出来るものがある。これを抽象的科学という。

科学の中には宇宙の全現象を統一する絶対的普遍の最高法則を研究する哲学と、宇宙間の一部特殊の現象に普遍なる法則を研究する分科学と〔が〕ある。

科学の中には人間の精神作用に基づく諸現象を研究する人文科学と自然現象を研究する自然科学との二種がある。

また科学研究の態度から言うと、哲学や理論物理学などのような宇宙間の諸現象間に存する根本法則を研究するのと、動物学や天文学などのように事実を主として研究するのとの二種がある。前者を理論的研究としその学を理論的科学とし、後者を記述的研究としその学を記述的科学とする。


※なお私=九去堂は、数学を用いなければ科学でないと思っており、一部例外を除き九分九厘の人文科学・社会科学は科学でも研究でもなく、好事家の趣味でなければゆすりタカリの道具だと思っている。共通の土台に立って、いい意味での批判が出来ないからだ。

私=九去堂がそうであるように、数学のできぬ者の言うことは全てたわごとだ。ただ一つの例外は、身を捨てて、一切の例外を問わぬあらゆる生物非生物を救おうと動いた者だけだ。身を捨てないで高い周波数でそれをキャンキャン叫ぶ者が余りに多くて忘れがちになるが。

この松下博士の文法論は、役に立つ一部の例外に属すると思うからこそこうして書き込んでいるが、科学かと言われるとそうでもないような気がする。

文法学

文法学は科学である。言語構成の法則を研究する者である。その中ある一国語の文法を研究するものを国文法学とし、いずれの国語ということなく一般に言語についてその文法を研究するものを一般文法学とする。

文法学は広義の言語学の一部である。広義の言語学は苟も言語に関する研究はみなこれを含むのである。そうしてそれが一国語の研究で有るならば、広義の国語学である。

その〔国語学の〕なか〔で〕国語の発達変遷に関するものを国語発達史として、音韻に関するものを音韻学とし文字に関するものを文字学とし、国語学の発達に関するものを国語学史とし、文法に関するものを国文法学とする。

文法学はその研究の態度に次の二種がある。

記述文法学

特殊の言語に存するその国文法を記述するものである。固より科学であるから理論を無視する訳ではないが、理論より具体的の事実を主とする。今日普通に存する文法書はみなこの流である。その目的は読書作文に応用するに在るのであるから、学科*であると同時に一面から言って一つの方術である。


*科学の誤植?

理論文法学

具体的事実をたていととして、理論を主として研究するものである。これに一般理論文法学と国語理論文法学との二種がありうる。

一般理論文法学は、いすれの国語にも拘わらずただ言語というものの間に存する根本の法則を研究するものであるが、これは世界のいずれの国にもまだ進歩した研究がないようである。国語理論文法学は、一般理論文法学を以て一国語の文法を研究するものである。

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